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5年生の夏くらいやったかな、
朝起きたとたんに、言葉がいっぺんに吹き出してきた。
だから、それまで、頭のなかにいっぱいあったんやろうね。
それからは、言葉の洪水。
ヘレンケラーでウォーターの場面あるでしょ?
ポンプで水を汲むシーン。
あれと一緒
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父兄会ではアツコがクラスにおると勉強ができやん、
いうて必ず言われるんさ。
だから、行くと、人の間に隠れて、じっと息をひそめとった。
あんな時に行かんとなにを言われるかわからんとおもうて、
必ず出席するんやけど、
そうするともろに、いわれるんや。
中学校の時が一番辛かったね。
悔しくって泣いて、悲しくってないて。
だから、ものいうたら、すいません、しか言われへんかった。
障害の子持っとったら、ほんとすいません、しかないよ。
迷惑かけてます、すいません、すいません。って。
それをずーっと言い続けてきた。
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中学校を卒業した時に、わかば学園(特別支援学校)へ行って入学式行ってびっくりして。
今まですいませんすいません、うちの子が迷惑かけてますーってなったけど
みんなが障害者やもんで。
他の母さんらも、胸張ってるんやんか。
私は、言われるばっかりで、小さくなって生きてきたで
胸はって生きてきた事がなかったんやけど
あー、ここには気楽に来れるーとおもた。
2年生の時に先生にPTAの役員を打診されて、
通うのに1時間かかるし、私中学までしか出てないし、自信なかったんやけど
先生が知力は僕らがカバーしますんで、体力だけよろしくお願いします、、っていうてくれて。
それから、楽しくなって。
味をしめて3年生のときもやらしてもろうた。
みんな、同じ障害というものをもっとるもんで、心が通じるというか
今迄にはなかった感覚やったんよ。元気もらった。
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ある日ね、うちの夫が板場さんしているもんで、
母さんらに料理教室をやってくれといわれて。
同じ板場で超男前のタイセイ君を連れて旦那と私と3人で行ったわけ。
私はそれまでずっと泣いとったやろ。
そんな沈んだ母さんだらけの場所へ
俺はどんな顔して、入って行けばええのかずっと考えとったって
夫から後になって聞くんやけど
ほんで、こんにちわーってガラっと開けたら、
まぁ、その母さんらが「きゃー!!」っていうて迎えてくれて。
こっちはジャニーズみたいな男前のタイセイ君連れとるもんでな。
もう、いっぺんで父さんは、ほっと胸をなでおろして。
大きなブリを解体したんやけど、
母さんらはみな、喜んで喜んで、大盛況やったんや。
「父さん、タイセイ君つれてきてよかったなぁ」
いうて笑うて、笑うて。
「俺は、ほんとに今日、どんな顔して行こうかとおもたけど、
えい一日やったわ。お前も役員して元気になった意味がわかったわ。
お前が元気でおってくれることが一番や。」とというた。
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今迄泣いてばかりいるわたししか知らんからさ。
「お前がこの中で元気でおってくれるんなら、若葉でなんでもやってやりたい」そういうて
せっせと宝くじ買うてくるんや。
「もし当たったらな、若葉に寄付するんや。あの子らぁになんかしてあげたい。
ここへ来たらお前が元気でおれる、あつこが元気でおれる。こんな嬉しいことはないな」というて。ま、結局当たらんかったけどね、ふふふ。
無駄な事は一切いわんよ。
口数は少ないけど、ものすごい私のことを心配してくれとるね。
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結婚してからも喧嘩したという事は2回くらいしかないな。
やっぱり6つ違うもんで、大人なんやな。
私がケンカ売っていっても買わへんし。
ほやから息子にはいうとんのや。
「もし、母さんが先に死んだらな、父さんにありがとうな、というといてぇな。
母さんは一代幸せやったよ、いうて」と、遺言してある。
敦子があるよって、この絆が強いのやろうなぁとおもう。
あの子のおかげで、なんとかしていかなぁいかん、と必死でやったきたらからね。
この子が若葉行ったらさ、三分の1くらい夫婦が離婚しとる。
こんな子産んでって別れとるんやな。
姑がこんな子しかよう産まんかというてくるし、
旦那も嫌やっていうてくるし、かまってくれん旦那もいっぱいおる。
結局、嫁さんが悪い事にされることになる例が多いみたい。
うちは、二人で必死になって敦子を育ててきたから。二人三脚もえいとこよ。
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息子が中学校3年の時に、敦子の存在を嫌がる時があって
先生が家庭訪問できてくれた時に「先生、テツオがこういうこというんですー」って相談したら
先生は「ははは」って笑うんやんか。
「先生、私がこんなに悩んどるのになんで笑うんですか?」っていうたら
「お母さん、順調に成長してますね」って。
「なんで?」っていうたら
「それが思春期というものです。それがなかったら、大人になったとき、暴力ふるったり問題起こしたりするんやよ」っていわれて、ちょっと心が軽くなった。
ある時、テツオにぽつんといわれた。
「母さん、このうちにとっておれはいらん子か?」
「なんで?あんたはこのうちで一番大事な子や」
「だって、母さん、毎日敦子って100回いうてもテツオっていうのは1回もでてきやんへん」
「でも、あつこは褒められてへんやろ?敦子ちょっと待てーとか、こらー敦子ーっていうてずっと怒られとるんやん」
「怒られとるでもええで、テツオって呼んで欲しい」
っていわれた。
あれが一番ショックやったな。
ハンマーでコーンと頭を殴られたような気がした。
私は兄弟やもんで、兄ちゃんやもんで、敦子のことをわかってくれとるとおもっていたの。
けど、そうではなかったのね。
さみしくて、さみしくて、仕方なかったのね。
あの言葉をおもうと今でも息子には申し訳なくて。
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そやけど、テツオが高校生で仲のいい友達が10人できたん。
「母さん、僕って幸せなんやな」っていうてきた。
「俺はあつこがおって、ものすごい辛くて、こんな不幸はないと思うとった。
でも10人の友達をみてみると、父さん母さん離婚しとる子が半分くらいおんのや。」
家を出て、アパートかりて、必死に働いとる子もおんのや。
そんなことおもうたら、父さんおる、母さんおる、小さいけど家もある。
俺って幸せなんやな、とおもうた。
っていうてくれたの。
あー、息子も成長したなとおもうた。
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嫁さんは4つ上。10人の友達の中の一人、ともゆきの姉ちゃんを嫁にもうたんじゃ。
そして、それもあつこ、とかいうんじゃ。両親は離婚しとった。
高校へ行く時に、ともゆきが寝坊するもんで、
ねえちゃんがいっつもともゆきを送ってきよった。
母さんのない辛さを弟に味合わせたらあかんいうて、
小遣いをやり、自分が働きながら母さんの変わりをしとった。それで、どこに行くにも送ってきいよった。
それで、いつのまにか、うちのんとひっついたという訳や。
それで、長いことつきおうとって、
25歳の厄年になる前に、
「母さん嫁をもらいたいっていうてきて」
「あの子か?」っていうたら
「うん」っていうて。
「あんらがえいやったらえいよ。むこうはなんというとるの?」って問うたら
「おれんとこには敦子っていう障害の子がおるけど、嫁に来てくれるか?いうたら
あんたとこのお父さん、お母さんになんかあったら、私があっちゃんみやええんやろ?
って、いうてくれたで、あの子を嫁にもらいたい」っておもうた。
こっちにしてもこんなに嬉しいことはないからね。
「そりゃ、金のわらじ履いてでももうておいで」って。
ほやけど、むこうも父さん一人やし。
町営住宅に暮らして、また、貧乏どうしや笑。
そうやから、紙切れ一枚でえいよってっていうたんやけど
こっちも、たった一回の結婚やから、
立神の宮さんで小さい結婚式をさせてもうて。
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嫁に着物を着せてやりとうてな。
嫁に内緒で、ジャスコの着物屋に10万持っていって
これで着物をくれ!って。
どんな柄でもえい、化繊でもなんでもえい、
着物と長襦袢、これで支度してって。帯は私が母さんにもろうた立派なもんがあるもんで。
とにかく、嫁さんに振り袖を着せてやりたかった。
貸衣装は、たった1回着て、何十万払うのはアホ臭いやん。
だから、新品で自分のものとして買うてやりたかった。
私が小遣いとしてだせるのは、この10万だけやったけど、
その気持ちをくんでくれて「高山さん、ちょうどえいのがあるよ」って
手頃なやつを出してきてくれた。
それで、嫁が遊びにきた時に、ちょっとおいでーっていうて
ジャスコに連れて行って、
「これあんたのな、花嫁衣装」って
着物を見せたわけ。
そしたら、まー、嫁さん泣いて、「着物が着れるとおもうてなかった」と。
本当はドレスも着せてあげたかったから、ドレスはどっかで借りてきてあげるからといったら
「お母さん、ドレスはいい。これ一枚で嫁に来たい」っていうてくれて。
貧乏家同士やから、通じるところもあったのね。
で、立神の宮さんで式して、民宿かりて、両家の親戚だけ呼んで、どんちゃん騒ぎしてさ。
私の弟が「ねえよ、ええ結婚式やったね。派手ではないけど、心のこもったええ式やったね」って。
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