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敦子は授業を聞いとってもわからへんもんで、教科書の余白の白いとこには
みな絵が描いとった。小学校も中学校も。
当時、特別学級というのはなかったし
授業がわからんから、それしか暇をつぶす事がなかったのよね。
養護の尾崎先生が
トモヤマに佐藤さんっていうの先生がおるから、
あっちゃん絵好きならいってみれば?となって。
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勇気をふりしぼって、アトリエ・エレマン・プレザンに電話した。
他の子はダウン症で、うちは自閉で超多動やったので
3分と同じところへ座ってられへんかった。
その度に、コラコラコラーっ、アツコアツコアツコーと走りまわっとった。
けど、「なにができるか分からないけど、一度いらっしゃい」って
マリア様のような声でいうてくれた。
それから、風景が大きくかわりはじめた。
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半年くらい経った時に
上田さんが、
「高山さん、ここへ来とる中であんたが一番幸せなんやで」というてきた。
「なんで幸せなん?わたしこんなにえらいのに」というたら
「ここに来とる子らぁはな、みんなダウンで生まれてな、心臓の手術からしてある。
生きるか死ぬかを超えてきとるんや。あんたとこのあっちゃん、手術したことあるか?って」
「いや、たまには風邪でもひいて寝てくれんかいな、っておもう」と答えた。
多分、私が、辛い辛いっていっぱい言うとったんやろうね。
「ふふっ、そんなことくらい軽いもんや」って言われた。
その時の上田さんの言葉で、この喉に詰まっていたの小石が、
コロンっと転がったような気がした。
上田さんのあの言葉がなかったら、まだ、自分が悲劇のヒロインでおったとおもう。
それから、考えてみると、アツコが辛いんじゃなくて、
私が人の目が辛かったんやろうな。
自分の子をまだ受け入れてなかったんやとおもう。
こういう仲間もおらんかったから、慰め合うとか、励まし合うとかなかったから。
そういう情報も一切なくって、ただ言われるだけやったから。
だから、泣きの涙ばっかりやったんやな。
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今までほんと泣いてきた人生やったけど、もう泣かんでいいね。
上田さんの言葉があって、佐藤先生達に出会って、
肇さんが子ども達は天使だねーっていつもいうてくれたけど
「先生、天使なんかどこにもおらへん、悪魔やったらどこにでもおるけど」って思うとった。
あれはさ、私がそう見られたくないで辛かっただけで
あの子自身は、辛くもんなんにもないのよ。
だけど、この頃、余裕が少し出てきたら、上田さんと
「天使とはいかんけど、座敷童にはみえてきたなぁ、っていうて笑うの」。
あの子がおるよって、幸せがめぐってくる。
どえらい座敷童や。
あつこのおかげ、あつこがおってこそ。
あちこちで縁がつながって、展覧会もしてもらい、出版社とも付き合いができて。
それこそ、私はこの志摩の先から出た事がなかったんやで。
それこそ、若者が海外にひょっと行く、それ以上に、私にしたら東京に行く事の方がたいそうなことやった。
そんな私がな、あつこを持ったおかげで、京都、東京、いろんなところへ行かしてくれる。
ええ人生よ。今は。
もう、涙もかれたわ。
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私が佐藤先生らに出会えたのは人生の収穫やな。
で、よし子ちゃんによういうの。
よし子ちゃんの喘息のおかげで、今のわたしらあがおるって。
そう思ったら喘息がありがたくって、ありがたくって。
感じようによってはなんでも幸せになるんよ。
なにひとつ、無駄な事はないわ。
今やでいえるんやけどね。今が本当に幸せやから。
もう泣く人生はえいな。
これからそんなに泣かんでも。
私の周りには助けてくれる人がいっぱいおる。
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敦子は、小学生の頃から、家ではずーっと絵をかいとる。
あんまり毎日かくもんで、邪魔になるで焼いとった。
あつこは帰ってきてただいまーっていうたら、洗濯物をたたんで、それからやな。
朝は、起きて一番に絵を描いて、9時に出勤するまでに絵を描いて。
カレンダーに本にカルタに。
カルタは一日に一組(あーが迄)つくるな。
人にもろうてもらうのが嬉しくって。
今年は5月からカレンダーをかきはじめたわ。
それと、誰の誕生日というのは何十人も頭に入っとるで
それに合わせて、カレンダーやったり、カルタやったりをつくるわけ。
人にあげるのが一番嬉しいんやね。
蓄えておく、というのはない、ない。
上手くかけたから置いておこうとか、
もったいない、とか
そんな執着は一切ないね。親もない笑
朝起きてから描いて、仕事行くまでに描いて、帰ってきてからも描いて、寝るまでかいて。
親は紙を買うのに必死。
昔はみな、焼いとった。また、邪魔くさいのできたっていうて笑。
うちにあったらゴミやけど
アトリエに行けば芸術じゃん。
やから最近はぜんぶ、アトリエへ笑
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ある日、なにげなく紙を渡して
「かるた描いてみぃ」っていうたら
「はい」っていうて。
文字が長かったもんで
五七五にしてみっていうたら
「はい」っていうて。
それで、かるたはほとんど五七五なわけ。
確かにな、あつこをみとると、ようネタがきれへんなって関心する。
頭の中にかきたい気持ちがいっぱいなん。
紙がほしくって、紙がほしくって。
白い紙やったらどんな紙でもええ。
ほやもんで、朝、起きたら一番に新聞の広告の裏が白いのを探す。
紙を同じようにきちーっと切って、積むの。
それで、まず字札をかいて、ファイルにはさみ、
その字札を見ながら、絵を描いていくの。
一日、だいたい1冊。
どんどん、出てくる。
漢字はものすごいよう知っとるよ。
最近は読む事はできてもよう書かんこと多いやん。けど、よう知っとるわ。
なんせ好奇心の強い子なもんで
一回入れると忘れへんのやね。
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敬子先生曰く、あっちゃんはシャッターをきるみたいに覚えるねぇって。
展覧会言っても5分か10分出てくるの。
ちらっとみて、もう、入ってけえへんの。
でも、シャッターきるみたいにみるから、全部覚えとる。
新幹線に乗っても、シュンっと流れていく窓の外の風景を全部覚えていた。
それは関心したね。
家から目的地へ行くまでの、私らぁの会話から見えてきたものから全部書く。
目的地へついたら、その後のことは、もうなにも書かない。
敬子先生があっちゃんは天才だよっていうてくれるけど
敦子自身は、その天才って意味もわからんだろうしね。
けど、そういってもらえると、私は幸せでおれる。
私の幸せは父さんの幸せ。
うまい連鎖ができとるな。
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この3月に検診に行ったら、4月に乳がんとわかった。
8日に入院して、9日に切りましょうといわれた時、
二つ返事で「はい」っていうた。
「あ、私でよかった、私やったらどんな辛抱でもしておれる。敦子じゃなくてよかった」っておもうた。
先生は、「高山さん、温存できますよ」っていうたけど、それをすると、
あと5週間、日赤まで放射線治療に行かなあいかん。
そんなことはようせん。
「先生、全摘してください」っていうた。
「いいんですか?」と問われたけど迷いはなかった。
「先生、あとなんとしてでも20年は生きたい。父さんと子のために。っていうた」
ほいで、手術終って、うっすら目を開けたら
みんなが大丈夫か、大丈夫かー、特に父さんの半泣きの声がちらっと聞こえて
そのまま、パタンと、また眠ってしもた。
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ナースセンターで気がついて次の日、冊子が配られた。
「タオルはしぼれますか?」
よし、しぼれる。
「ゴムのボールは握れますか?」
にぎれる!!
そして「歩きなさい」とかいてある。
タオルはしぼれるし、ボールはにぎれるし
よし、歩かなぁいかんか、ということで
集中治療室から一般病室に移動してきて1時間も経ってなかったんやけど
エレベーターまでずーっと50mくらい、天敵台を引きづりながら歩いてみて。
そして、また帰ってくる時に、ちょうど母と妹に会うて。
「なにやっとんのー!!!」て怒鳴られて。笑
「歩いとるんやわ。冊子に歩けってかいてあった」というと
「あんたなぁ、昨日手術したばっかりやでって」笑
そうかーっていうて、立とうとすると
ふらっとして、目が回って、急いでベットに横になって。
妹があわててナースコールしたら
看護婦さんがとんできて
「どうしたんですかー!!」って。
「いや、歩いてたんです」っていうたら、そりゃあ怒られてね笑
でも、よう考えたらお腹がすいとったんやね。
ずーっとなにも食べてなかったから。
お昼が間もなくやってきて、どんぶりいっぱいのお粥を食べたら
元気になって。
さぁ、歩きにいくぞ、とメラメラしてきて。
よし、と思うて、400mの病院の廊下を5周歩いたね。
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