鰹節(波切節)の歴史

1. 鰹節以前

日本列島沿岸で豊富に漁獲されるカツオは、

タンパク源として重要な位置にあり、

大和朝廷は国々にカツオ浦(カツオを水揚げする湾)を定めて

干しカツオと煎汁の献納を強制しました。

 

2. 鰹節の誕生

室町時代に入り、干しカツオに「焙乾」という技術が導入され「鰹節」ができました。

江戸時代に入る前から、焙乾小屋は、

五島・平戸・紀伊・志摩・土佐各国のカツオ浦に建てられましたが、

当初の焙乾設備は台所兼用のもので、

囲炉裏の上にしつらえた平籠に卸したカツオを入れておくと、

煮炊きする熱と煙により自然と焙乾されるものでした。

その後、鰹節が広く世間で名声を得たのは、

紀州の焙乾小屋が改良されて鰹節が進歩を始めてからです。

大坂堺港の大商人や、京都の上流家庭で

旨味を付加するために鰹節がだしとして用いられるようになりました。

 

3. 紀州甚太郎

カツオの漁法とともに、鰹節の製法を土佐国清水浦に伝えたのが、

紀州印南浦のカツオ漁民の角屋甚太郎親子といわれています。

土佐藩は鰹節を藩の貿易品にしようと考え、

紀州甚太郎の製法を積極的に取り入れました。

それまではわらを用いての火乾でしたが、

ナラ・クヌギなどの薪を使い、煙で燻す焙乾法を考案しました。

 

4. 土佐与市

江戸後期に、紀州印南浦の住人で土佐与市という鰹節職人により派生し、

全国各地にその技術が広められました。
後年、与市は望郷の念禁じがたく、故郷の紀州印南に帰りましたが、

秘法を他国へ漏らした罪により追い返されてしまいます。

与市は房州千倉に引き返し、親交のあった渡辺家に身を寄せました。

文化12年(1815)3月23日、軽い風邪が原因で、58歳で他界しました。

 

5. 波切節

江戸時代全国の鰹節が江戸に運ばれてきて

諸国番付表がつくられるほど、

熱狂的にもてはやされたそうです。

各地の節の違いがわかるほどうるさい舌をもっていた江戸っ子達が

全国の鰹節の手本となる行司役に「波切節」は選び

日本一の称号を与えてくれていました。

 

今でこそかつお節は一年を通してつくられるようになりましたが

昔は季節労働でした。

5月-7月はかつお漁とかつお節づくり

7月ー8月カビ付け

半農半漁の暮らしの中で

麦の栽培や芋焼酎の原料をつくり

冬は焙乾の薪づくりのために山にも入りました。

転業、自然淘汰を繰り返しながら

山彦鰹節は江戸の頃と変わらない伝統の技法で

波切節の味を守り続けています。

 

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